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生後5ヶ月児に従順を教えることは可能なのか

第三子の次女が生まれ、早半年…。母としてはまだまだ赤ちゃんをあやしていたい気分なのですが、娘の成長は待ってくれず、彼女は日々少女への歩みを着実に進めています。

この頃は、授乳やおむつ替えなどの生理的な要求だけでなく、「私を見て!」「かまってよ!」と訴えるようになってきました。要求に応じて泣き声の声色が違うと気付くのも、母としては楽しい発見です。

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何歳から教え始めるべきか

さて、生後5ヶ月の娘。まだまだ見た目には赤ちゃんです。みなさんは、子どもへの教育は何歳から始めるのが良いと考えますか?

言葉が分かるようになる2歳から?
流暢に話せるようになる3歳から?
幼稚園のお友だちとの交流が増える4歳から?

私の個人的な意見は、0歳からです。0歳から、親の権威と親への従順を教えるべきだと考えます。

長女がそれこそ今の次女くらいの時、私の敬愛する宣教師のクリスチャン女性が来日され、私の教会で子育てに関する講義をしてくださいました。

その講義の中で、子どもへ従順を教えるのは生まれたその日から行うべきであると断言されていました。

その時の私の衝撃と言ったら。雷にでも打たれたようでした。

もちろん、新生児に懇々と説教をしたり、おむつ替えを泣いて嫌がるからといってスパンク(お尻ぺんぺん)しろと説いているわけではありません。

では、どのような教えを赤ちゃんのうちからすべきなのか。そしてなぜそんなに早くから行うべきなのか

宣教師の姉妹から教えていただいたことも交えつつ、私が4歳の長女と2歳の長男をどのように教えてきたのか、そして生後5ヶ月の次女に今どのような教育を始めているのか、具体的に紹介します。

言葉がわかるようになってからでは遅い

先述した宣教師の姉妹が講義の中で前提としておっしゃっていたこと、それは、

言葉での意思疎通ができるほどに成長してから従順を教え始めても、それは手遅れである。

ということです…!

「子どもの意思を尊重してあげよう」という価値観が流行っている現代においては、なんとも衝撃的な言葉ではないでしょうか。

なぜ手遅れなのか。ちょっと想像してみてください。

言葉での意思疎通ができるようになってから(3歳とか?)親の言うことを聞くように伝えたとして、子どもが急に素直に聞くようになると思いますか?子どもには自我が芽生えている頃です。親が教えたいことが子どもの意に沿わない場合(ほとんどがこれに該当します笑)、親が説明したところで果たして納得するでしょうか?

0歳の、言葉の意味も何もわからないうちから親がしっかり相対して「やめて」などを教えていると、その意味するところはわからなくとも「なんだかこれは嫌なことだ」と感じるはずです。それを日常の中で繰り返していけば、日々の子どもの成長と共に、親の善悪の基準をしっかり学んでいきます

それに生まれた時から親に従うように教えられることに慣れているので、例えば大きくなって一緒に散歩をしていて「そこの角で一旦ストップしておいて」などの親の声かけに従うのは子どもにとって大きなハードルではなくなります

生後5ヶ月の次女への教え

今現在、私がどのようなことを次女に教えているか、いくつか取り上げて紹介します。

世話をされる時に親に協力すること

おむつ替え、着替え、お風呂…。日常生活で赤ちゃんは大人の世話なしでは生きていけません。

親は喜んでお世話をしますが、必ずしも赤ちゃんが快適に感じる時と方法でできるわけではありません。

しかし、赤ちゃんはお世話をされる側なのです。親にも都合というものがあります。親は本当に可哀想なことをしてしまった場合を除いて「ごめんね」と言わなくて良いのです(よく子どもに謝罪してばかりのお母さんを見かけます。ご機嫌取りをする必要はないし、親は子どもの奴隷ではないと思うのです)。

おむつ替えの時は、足をバタバタさせたり、寝返りを打ったりせず、おとなしくするという形で親に協力する。これが親に従順な子の姿です。

もちろん、5ヶ月の娘には「きょうりょくする」という意味が分かりませんが、先述したように、分かる前から伝えていくのが賢明です。

娘が身体をよじったりしておむつ替えがしにくくなった場合、身体や足の位置を戻しながら「ママに協力しなさい、身体はまっすぐ、もう少しこのままでいてね」と話し掛けます。

礼拝中は静かにすること

私たちクリスチャン夫婦にとって、1週間のうちで最も楽しみにしているのが礼拝の時間。

静かに神さまに思いを巡らせながら、祈り、賛美する礼拝は、大人にとっては至福の時間ですが、子どもにとっては窮屈な時間かもしれません。

しかしここでも、「静かにする」という消極的な手段で親と他のクリスチャンの兄弟姉妹に「協力する」ことを教えたいものです。

4歳の長女と2歳の長男にはかなり手厳しく教えたので、彼らはもう静かに本を読んだり遊んでいられるようになりました。

これからが本番の次女は「あーうー」と声が出ることがあります。その際はお口をチョンチョンと触り、耳元で「静かにしなさい」と低い声で囁き注意しています。

お乳を噛まないこと

これは母乳育児をしている場合の話ですが、かわいい乳歯が顔を覗かせる生後半年ごろから「噛むようになって授乳が辛い」という母たちの悲鳴を良く耳にします。

長女がたしか8〜9ヶ月くらいの時、授乳の終盤に噛まれたことがありました。彼女としては、よく飲み満ち足りて、なんとなく歯固めを噛む感覚でおっぱいをガジっとしただけでしょう。悪気も何もありません。

私は「赤ちゃんがお乳を噛むようになることがある」ということを事前に予習済みでしたので、決めていたことを実行しました。

娘の顎の付け根を掴み口を開けさせ、低い声で「やめなさい。痛い。ママはそれは許しません。」と叱りました。授乳はそこで強制終了です。泣いてもこのタイミングではもうあげません。この場合は幸いよく飲んだ後だったため、空腹で可哀想という事態にはなりません。

もし授乳の序盤であったとしても、授乳を中断して、”噛む” と “嫌なことが起きる” という行動の責任を取らせるべきです。しばらくして、抱き上げてもう一度、歯を触りながら「噛まないでね」と静かに警告し、授乳に戻ればいいと思います。

間違っても、噛まれた時に大きなリアクションをして “遊び” にならないように注意すべきです。赤ちゃんはもう一度噛んで、先ほどと同じ楽しいこと(お母さんが大きく反応してくれる)が起きるかどうか試すでしょう。

「痛いよ〜やめてよ〜!」と言いながら、その行為を止めさせる手段を取らないのであれば、「お母さんの言うことは聞かなくても良い」ということを教えていることになります。赤ちゃんは素直です。教えられたことを行なっているまでなのです。

従順は恵みを生む

ここまで書いてきたことは、現代の子育て方法と比較すると多少「厳しい」と捉えられるかもしれません。

でも私たちクリスチャンは、今一般的に流行っている育児法ではなく、聖書を土台に、聖書を何よりも子育てのガイドラインとして参考にすべきです。たとえそれが今の風潮に受け入れられなくても。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。
「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。
そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

エペソ人への手紙 6:1〜3

子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。

コロサイ人への手紙 3:20

むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。

箴言 13:24

神さまがこれらのことを私たちに命じているのは、なぜだと思いますか?

上記の聖書箇所にあるよう、それは子ども自身の祝福に繋がるからなのです。

手前味噌ながら、うちの子たちはよく従順を学んでくれていると思います。親だけではなく、教会や児童館などで関わる大人の言うことも聞くようにと努めて教えています。かなり親バカフィルターがかかっているかもしれませんが、観察していて、関わりやすい・愛されやすい子に成長しているのではないかと思います。

「やめて」と言われたらやめること。「おいで」と言われたら行くこと。

「従順を教える」と聞くと、なんだか主従関係を連想し、私たちの理想とする親子のあたたかな愛の関係との乖離を感じてしまうかもしれません。しかし、子どもの保護者でありトレーナーでもある私たち親は、子どもを守り、自立に導き、神の御前に立つ者として育て上げなければなりません。一生手元で愛でるペットを育てているわけではありません。

従順は恵みを生みます

両親が聖書を土台に従順を教え、子どもも従順を身につけていれば、子どもが成長したのちに神にも従順な幸いな人生を歩めるようになると私は信じています。

簡単なことでありませんが、私たちも苦戦しながら頑張っています。
何より、子どもたちが本当に頑張っています。

あーちゃん
あーちゃん

幼いうちがチャンスです!一緒にチャレンジしましょう〜!

この記事を書いた人
あー

りょうの妻。
1992年生まれ。都内在住・広島出身。
美大 油画科中退 → 専門学校 ビジュアルデザイン科卒。グラフィックデザイナーとして社内受託案件 → リクルートG企業に常駐。現在は専業主婦!

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