ホームスクーリング

介護支援の本質を考えて変化を問いかける加藤忠相さんの紹介

介護支援の本質を考えて変化を問いかける加藤忠相さんの紹介
スポンサーリンク

今回はホームスクールとは少し毛色が違った記事の紹介です。

介護という分野において「従来のやり方を続ける事」ではなく、 「物事の本質を考えて変化していく必要性」をとらえた記事です。

直接教育とは関係ありませんが、従来のスタイルを続ける事へ疑問を持つ姿勢が参考になると思い分かち合わせて頂きます。

介護業界も60年前の介護を伝統的に続けている状況のようです。

60年前の介護支援を続けることへの疑問

 60年前の介護支援を続けることへの疑問

「何かあったら危ないから」といって、

じいちゃん・ばあちゃんを長時間椅子に座らせっぱなしにする、

寝かせっぱなしにするのが介護の仕事でしょうか?

僕はそうは思いません。」

「目の前のじいちゃん・ばあちゃんに何ができるか考えるのが介護の仕事なはずです。

いい加減、僕たちは考え方を変えなければいけない。」

スピーカーである加藤忠相さんの言葉です。

介護現場に務めその現実にショックを受け、自分が本当にやっていきたい介護事業を立ち上げました(グループホーム結、デイサービスいどばた、など)。

私はこの記事を読むまで介護支援とは「おじいちゃんおばあちゃんのお世話をすること」だと思っていました。

その人の人間らしさとか、何がしたいかとか、何ができるかを考えるのではなく、ただ生きるために必要な食事や清潔感や安全を確保することが介護だと。

でもこの記事を読んで気づかされたのは、介護者視点だけで形成されたもので介護される当事者視点が欠けているということです。

介護とは何か。介護の本質とは何か。

それを考えなかったとき、また見失ったとき、介護する側の都合が介護される側に押し付けられるのだと思いました。

今回の記事では、介護業界に起きている課題を通して教育についても考えてみました。

介護者は被介護者からリスクを奪っていいのか

介護者は被介護者からリスクを奪っていいのか

教育も介護も同じ傾向を持つのではないかと思いますが、子どもや高齢者がリスクを取ることを極端に避けたいと思います。

手を切るから刃物は危ない。

落ちたら骨折するので木登りは危ない。

足が弱っているから遠方まで行くのは大変でやめた方がいい。

どれも事実であり必要な配慮です。

しかしそれが過剰になってしまう傾向があります。

加藤さんはそれを「リスクを奪っていいのか」と表現されました。

りょう
りょう

私には学童や学校で働いている友人が多くいますが、

彼らが葛藤を口にするのは「学校/学童は(子どもが)やってはいけないことが多すぎる」です。

これは教員や学校全体がリスクを取りたくないからです。

「〇〇君が鉄棒から落ちて骨折した」となると「教員は何をやってるんだ!」と
誰かが騒ぎ立てます。

管理能力と責任が問われます。鉄棒は危ないと判断されます。

こういった「リスクを許容しない社会」が「子どもにリスクを負わせない社会」を形成している一因です。

介護業界も同じだと思います。

むしろ死に近い点でより過敏でしょう。

ここから「私はどこまで子どもに自由と責任を与えて、リスクを負わせることができるだろうか。」と考えさせられます。

ねんざや骨折はどうでしょう。

高いところから落ちて脳震盪で病院に運ばれるかもしれません。

何かに夢中になって迷子になるかも。

怒りに任せて誰かを傷つける事もあるでしょう。

親は子供がそのような状況になることを受け止める事ができるだろうか、と。

りょう
りょう

子どもを預ける親も、預ける先についてよく考え、その責任を負う覚悟が必要だと思います。

自分の目の届かないところに子どもを預けるわけです。

それは預けた人を信頼して任せることになります。

その結果招いたことを誰かの責任とすることはできません。

子どもの人生に起きたことは、子どもと親が負うのです。

親がまずリスクを許容することで、預けられた教員もリスクを許容でき、そうして初めて子どもはリスクを負うことができます。

加藤さんは「介護者が被介護者のリスクを奪うことは、介護の本質的な目的なのか?被介護者もその家族も望んでいることなのか?」ということを問うています。

介護におけるリスクマネジメント

「何かあったらどうするんだ」という問いに対して 加藤さんは真向から言い切っています。

よく「何かあったらどうするんだ」「どう責任を取るんだ」ということも言われます。

でも、僕らの仕事は「何かある」んです。

じいちゃん・ばあちゃんたちは明日死ぬかもしれない。

明日しゃべれなくなるかもしれない。

「何かあるかもしれない」場所で僕らは仕事しているんです。

「何かあったらいけないから寝ていてください。座っていてください」と伝えるのは介護なんでしょうか?

僕はそうは思いません。

よく「リスクマネジメントをしなければいけない」とも言われます。

でも、そのリスクマネジメントって誰のためにやるんでしょうか?

僕らがリスクを負いたくないから、じいちゃん・ばあちゃんの自由を奪っていることになってはいないでしょうか。

ハッとしました。

僕らの仕事は「何かある」んだ、と。

そういうところで仕事をしているんだと。

明日死ぬかもしれないという現実を捻じ曲げるのではなく。

何かあったらいけないから何もしないで下さいとリスクを奪うのではなく。

「何かあるってわかってなお、あなたをサポートします。」というのが、本当の意味で被介護者視点の介護なのだと思わされました。

もちろん医学的な知識の提供を行い、安全を可能な限り確保する事は必要でしょう。

それでも被介護者に寄り添い、1人の人格として尊重している。

介護とは「人がなにもせず死を待たせる」のではなく「その人が人として喜んで生きていくためのサポート」だと思わされました。

加藤さんもこのように言います。

僕らが本当に考えなければいけないのは、

「リスクをどうなくすか」ということではなく、

目の前のじいちゃん・ばあちゃんが、自分らしく生きていくために何ができるかということだと思います。

これは私にとって大きな視点の転換、パラダイムシフトでした。

何かあるかもしれない事実を受け入れる強さが、加藤さんとその仲間にはあるのだと思います。

介護支援の本質は「自立支援」

 介護支援の本質は「自立支援」

7時間椅子に座らせ続ける“管理”が、介護ですか?

加藤さんは現実に起こっていることは本当に介護なのか?という本質について問いかけています。

そして介護保険法の理念が以下のようであると問いかけています。

第一項の保険給付の内容及び水準は、被保険者が要介護状態となった場合においても、可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮されなければならない。

介護の本質は自立支援である。

この結論が本質的かどうか私には判断できません。

ただ加藤さんは問いかけています。

管理することが介護の本質ですか?と。

一部の介護施設では腰や足に痛みがあったり、認知症の高齢者の人を平気で7時間椅子に座らせ続けている。

朝、椅子に座らされて、3時間も経てば誰だって嫌になります。

それで「すいません。帰りたいんだけど」と伝えたら、「加藤さん帰宅願望あり」と記録に書かれる。

腰が痛くなって、立ち上がって出口を探せば「徘徊」と書かれて問題老人扱い…。

いい加減、僕たちはこの古い考えから脱却しないといけないと思います。

自分たちが7時間いられる環境でなければ、認知症の人がいられるわけがないんです。

でも、僕らの仕事は、管理や支配をすることではなく、介護保険上の自立支援をすることなんです。

この古い考え、大多数の考え、当たり前の考えから、脱却しないといけない。

そもそも自分が難しいのに、それを誰かにさせてはいけませんと。

介護の本質は管理や支配ではなく、自立支援を行うことだと。

既存の考えをうのみにするのではなく、自分が感じた疑問に向き合い、その本質を考え、あきらめず行動されたのが加藤さんという方です。

教育の本質とは何か

それでは教育の本質とは何でしょうか。

では私たちはなぜ教育を行うのでしょうか。

今の教育現場で起こっていることが教育なのでしょうか。

加藤さんの言葉に当てはめるならこう言いかえる事ができるでしょう。

7時間椅子に座らせて知識を詰め込め続ける”学び”が、教育ですか?

私たちも200年前の教育スタイルを今なお行い続けることに疑問を持ってもよいのではないでしょうか。

納得した上でその教育スタイルを続けるのはそれぞれの選択なので尊重されるべきだと思います。

しかしその本質を捉え考えていく必要があると私は思います。

あなたの子どもはなんのために学校へ通うのですか?

なんのために勉強するのですか?

ホームスクールとか学校教育とか選択する前に、そもそもなんのための教育なのか。

ホームスクールという形式に囚われていた私こそが、改めて教育の意味や目的を考える必要があることに気がつかされました。

ぜひあなたも、忙しい毎日の中にあって一歩立ち止まって考えていただきたいです。

聖書は子どもを教育することについてなんと言っているか

では聖書は教育についてなんと言っているでしょうか。

私たち夫婦はクリスチャンですので、聖書を土台にこの事を考えたいと思います。

聖書は親に対して「子どもに教えよ」と命じていますが、このようにいっています。

私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。

あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。

これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

旧約聖書申命記 6:6〜9

聖書が子どもへ神の言葉(上記箇所ではモーセの律法のこと)をよく教えなさいと言います。

それはいついかなるときも、どのような場所でも子どもに語るように。

ではその神の言葉(律法)を集約するとどうなるのか。

イエスは答えられた。

「第一の戒めはこれです。

『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

第二の戒めはこれです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

新約聖書マルコの福音書 12:29〜31

イエス・キリストはモーセの律法を集約するとこの2つになるとおっしゃられました。

聖書が言う教育の目的は「神を愛し、人を愛する人格を形成すること」であると私は考えます。

りょう
りょう

大胆に言い切ってみました!

(いろいろご意見を賜りそうですが…)

これが今の私の結論です。

これは聖書が教える親の道という本を読んで学んだことでもあります。

もっと詳しく知りたい方はぜひ手にとってみてください。

聖書が教える親の道―0歳から20代へのペアレンティング | ダン・ギルクライスト, 潤, 辻 |本 | 通販 | Amazon
Amazonでダン・ギルクライスト, 潤, 辻の聖書が教える親の道―0歳から20代へのペアレンティング。アマゾンならポイント還元本が多数。ダン・ギルクライスト, 潤, 辻作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また聖書が教える親の道―0歳から20代へのペアレンティングもアマゾン配送商品なら通常配送無料。

これが教育の目的なら、この目的を達成するための手段はなんでもいいと思いました。

学校に行ったらいい。ホームスクールしたらいい。

働きながらでもいい。遊びながらでもいい。

でもその目的にまっすぐ向かっているのか。

この事をいつも問いかけながら、目指していきたい、目指そうと思いました。

まとめ

  • 従来のスタイルが本質や目的を適切に捉えているかを考える必要がある
  • 必要なリスクや責任を負うことで、本質を捉えた行動ができる
  • 本質的な目的をはっきり捉えることで、その手段を柔軟に選び取ることができる

いかがだったでしょうか。

介護と教育で起きていることは共通点があるなと感じています。

実際的な問題として私も両親の介護を行う日がきます。

自分事としてもこの記事に出会えたことは本当によかった。

皆さんの人生にも何か1つでも益になれば感謝です。

今こそ、僕らの“常識”を変えていこう

加藤忠相

“若者をその行く道にふさわしく教育せよ。

そうすれば、年老いても、それから離れない。”

旧約聖書箴言 22章6節

God bless you!

この記事を書いた人
りょう

某都立大学院で化学専攻。大手企業で5年間最先端研究開発に携わった後、日立系IT企業で営業として活動中。

愛妻と娘の3人暮らしでホームスクール中。
将来は子ども食堂の運営、クリスチャンスクール、異世代間シェアハウスの設立を目指しています。

りょうをフォローする
スポンサーリンク
マムレ日記|クリスチャン夫婦のセミリタイアとホームスクール
タイトルとURLをコピーしました